昭和五十六年五月二十日  朝の御理解

御理解第四十八節
「わが子の病気でも可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞ
云う事を聞かぬ時にままよと思うて放っておくような気になって信心してやれおかげがうけられる」

 今朝から「喜妙朝礼」(きみょうちょうらい)という事を頂いて 目覚ましのおかげを頂いた。喜妙、喜びの妙、朝は朝の礼と書く喜妙朝礼 こりゃたしか仏教のなんか経文かなんかの中にある文句ぢゃないでしょうかね、喜妙朝礼と、字はどうか知りませんが私は字で喜妙朝礼、そして「絶妙絶後」という事を頂いた。
 絶対の絶ですね、絶妙、妙は絶えなる。絶後、後にも先にも無いといったような時に使いますね。
 私は合楽の御理解は、絶妙絶後ではないかと思います。又聞こうとして聞けれる話ぢゃない。ただ表現が又話し方がまずいからではないでしょうけれども、これをもっとすばらしい表現で私が頂いているその内容をですね、もっとすばらしい話上手な人が頂いたら本当に絶妙であろう 絶語であろうと思います。
 ならばそれ程しのものがどこから生まれておるかというと、まあ云うなら喜妙朝礼的な合楽の信心からだと思うです。
 喜びいっぱいで、いわば本日も目覚ましのおかげを頂いてというお礼心からね、朝礼というのは朝の御祈念というふうに頂いてもいいでしょうね、その朝の御祈念の中に合楽に御縁を頂いておる人達の総ての祈り、すべての願いがこめられる。そしてその内容から、或る場合は迸るように、或る場合は諄々と説き明かされる教祖生神金光大神の御教えというものはね、絶妙絶後であるという意味でしょうね。ですからそれ程しの信心を合楽で頂いているのでございますから、いよいよ御神意に応えられるというか 御神意にそうた生き方が出けなければ勿体ないという事になります。
 今日の御理解を頂きましても、我が子の病気でも あわててはならぬ。いわゆる云う事を聞かん時に子供が、もうままよと、あんたのごたるとはもうかもわん というような心になって信心してやれ、おかげが受けられる。私共はやっぱりそれこそ願いに 最近の私の信心なんかは、願いに始まって願いに終わるという程し、その願いの足りない、おかげを頂いておるお礼の足りないお詫びをしておるというのが、今の私の信心ですけれども。云うならば願いに始まって願いに終わる程しの願いを繰り返しさせて頂いとるのですけれども、願うた後はあなたにおまかせする。いわゆる後はままよ、という心である。どうでもね お願いをする、本当に願いどうりのおかげを頂いて有難い というおかげも有難いですけどもね、いうならばいよいよ願うても願うても おかげにならんといったような時にはね ままよという心が出るような信心を日頃頂いておるんですよ。もうそこにはおかげの世界から、お徳の世界。ままよという心十二分の徳を受けよと思えば、ままよという心になれよとおっしゃる。私共はやっぱり絶えず痛ければ痛い、痒いければ痒いで願います。撫でてももらいたい、擦っても貰いたい。痒いかなら痒いても貰いたい。けれどもその願いが例えば成就にはならないならば、ここにひとつ分からねば ははあ神様はいよいよこの事をもってお徳を下さろうとしておるな 力を受けよと云うておられるのだと悟らにゃいけんふです。金光教の信心はお徳を受ける御教えばかりと云われるが、結局悟りの道なんです。そこから ままよという心は生まれてくるんです。ほっておくような心はね、ほっておくというて放任するというのぢゃない、ほっておく心で願ってやれと、こうおっしゃる、もう兎に角おすがりします、お願いしますばっかりでね、それでおかげになればそれでいい、自分の思うようになれば、おかげになるけれども、そりこそ思うようにならん時程、神の願いが成就しておる時であると仰せられるのですから、その神の願が成就しておる事を悟らにゃいかん、願うた事が願うた通りになるというのは、それは云なら本当の大したおかげぢゃないのです。
 右と願うても左 左に願っても右というような時こそ、いよいよ神様の願が成就しておる時であるから有難い。
 神の願が成就するという事は、いよいよ私共氏子が徳を受け力を受けて信心して、おかげを受けてくれよという世界に住まわせたいという働きがおこっておるなあと気付いたら、右になる事、左になる事、願うた事が成就しない其の事に対して、お礼を申し上げるような心になる。その向こうに夢にも思わなかったようなおかげという いうならば、お徳の世界があるのです。その夢にも思わなかったようなおかげ、それをここん所では ままよという心というか、まあ放っておくような心、その放っておくというのは、もうしらんもうお前はかまわんというのではなくて、其の事はもう放っておくような心持ちになって、神にすがってやれという所。そこには本当に神様がそれこそ夢にも思わなかったおかげが展開してくる。
 いわゆるお徳の世界に住む事が出来る。そういうおかげの頂ける生粋の所をね、合楽理念は説くのです。しかもそれに合楽理念による生き方を身につけていく、いうならばその次第が まあいうなら絶妙絶後的ないわば、教をもって説いて下さるのであるから こちらも一つ本気で喜妙朝礼の大みかげを頂いて、そういう心でピシッと受け止めて、絶妙絶後的なひとつおかげを頂いて頂きたいと思う子供の病気を治して下さいと、その治して下さいの一心が、お参りもしております、御祈念もしておりますでしょうけれども、それでもそれが、右とも左とも ぎすとんせんならばです、そこに一つの悟りを開いて、その悟りを開かせて頂くその手立てが、合楽理念によって説かれてあるから こりが喜妙朝礼的な有難い心で頂きよらんと、ピーンとくるものがない。いうならば悟る心が開けてこないそしてそこから、いうならままよという心でおすがりをする、そこから夢にも思わなかったようなおかげ、助からんもんが助かる。開けんはずのものが開けるというような おかげにもなってくる。
 私は最近皆さんにも申しますように、今合楽で頂いとかなければと、なら昨日高橋さんの例を申しましたように、もう一から十まで御神意を伺うてから いかにもすばらしい熱心でまあ有難いようだけれども、そんないうならば一から十までお伺いをする、そりゃあいいでしょうけれども そのお伺いが出けない人が(  )になったらどうなるか 次の時代は、そこでいうならば自ら自分の心ん中にその生き方というか、右左が感じれれるような信心を いわゆる黒帯から白帯に切り替えておかんと後が、丁度座頭が杖をはなしたような結果になるのです。いうならままよの世界、いうならば私共の世界ではない、神様の願いの世界が、私共の上に現われてくるようなおかげを頂く為に、いよいよ精進しなければなりませんが今朝から頂きます意味がどういう意味がもっと深い意味のある事かも分かりませんけれども、たしかに合楽で頂いておる御教えがいうならば、何十年間一回だって同じ話がないというような事から考えてもこりゃただ事ではないぞと 悟らしてもらってね、その表現のまずい所は皆さんの喜妙朝礼的な信心によって受け止めていく。
 それを血に肉にしていかなければね、いよいよ夢にも思わなかった世界に住まわせて頂かなければ、あいすみません。
 今日は又、他にまあ実際的ないろんな御教えも頂かせて頂いたんですけれども 確かに放っておくような心にならなければ、夢にも思わないようなおかげになっちゃこんですね。ただ願った事が成就するというような事は大した事ぢゃないですよ。そういう一つ信心そういうおかげを願っての信心でありたい、先ずは兎に角朝の目覚ましがしるしい、しるしいと お参りがしるしいといったような事では修業にはなりましょうけれども、本当な事ぢゃない。
 先ずはお道の信心は朝参りからと云われるから、その朝参りが身についてしまう、血に肉になってしまう そして目覚ましのおかげが有難いものになってくる。そこからの朝礼という事になったら、いわば御理解がそのまま 血に肉になっていくようなおかげも頂けると思うです。どうぞ